千と千尋の神隠しは、よく分からなかった。正直。と言う声が意外と多いので、私が解説をしてみたいと思う。

ハクの名前はニギハヤミ琥珀主といっていた。ニギハヤミという神様は、神道の世界には見当たらないが、ニギハヤならいる。天の岩船に乗って高天の原からやってきたと言うところから、今では飛行機の神様になっている。宮崎氏らしい命名であろう。
そんなところから名づけられたと思われるハクは、今は悲しいかな、ドカンになってしまった物と思われる。「もう、帰るところが無い・・」とか、「・・・マンションが建っている」と、あるのでそうだろう。だって、そういう川って都内にあるじゃん。
琥珀主は、自分の名前を思い出したときに竜から人間の形に戻る。湯バーバの魔法が解けたのだろう。かわいそうなハク。竜にされてコキ使われていたんだろうね。そういえば、死に掛けたときにも、人間の姿に戻してもらえなかったね。
名前を思い出して魔法の解けた琥珀主は、湯バーバに話して弟子を辞めると言う。しかし、川がドカンになってしまっている以上彼に帰る場所は無い。
あ、さて、アーサーCクラークの「幼年期の終わり」という小説に、宇宙人が地球を管理して、世界の平等と平和が強制的に、しかし理想的になされたと言う説話があったのを思い出した。早速、今日の昼からでも、そんな宇宙人にやってきて欲しい物だ。今の地球文明なら川とかをドカンとかにしないでも世界中の人が十分幸せにやっていけるだろう。誰でも思う「ちょっと、今の科学力ほかの方向へ向けようぜ。」分かっちゃいるけどできない、人類の悲しさ。

突然だが、ここで写真の話をしよう。意外なようだが、「千と千尋」を紐解くポイントになるのだよ。

私は、若いころポートレートが趣味で日曜日人なるとカメラ担いで都会へ繰り出したものだった。目を皿のようにして、いい女を捜し、見つけると飛んでいって、撮影させて欲しいと、お願いする。目が肥えてくると、いい女は、一日、二・三人しか、見つからなくなる。
いつも思ったのは、「撮影の時、あんなに可愛く見えたのに何でフィルムにはこんなブスが写っているのだろう」て、事で、いつしか、「ア、女の魅力は顔じゃない!」って、気がついたものだった。女の魅力は、
で決まる。目さえ綺麗なら、顔も体も関係ない。私は、女性の目の魅力のとりこになって夢中で撮影していたのだ。
・・・いいですか、若い女性の諸君。
そういえばこの前、魚の雑誌を読んでいたら、古代魚愛好家の話が出ていた。観賞魚の好きな人は、魚を見ていると、魚が暗い顔しているのか、明るい顔しているのか分かると言う。「暗い顔しているなぁ」とか思って放っておくと、そのうちに、
がたれてきて、見た目にもかっこ悪く、なんだかドロッとした魅力のない魚になってしまうと言う。大体、環境が原因だそうだ。

宮崎作品には、働く子供がしばしば登場する。ハイハーバーでコナン達は大人たちのように仕事を持つ。紅の豚の女の子はまだ子供なのに飛行機の設計をし、パズーは鉱山で働いている。子供は、働きながら育つべきだ。が、宮崎作品に共通のメッセージだ。働くと言うのは、同時に教育でもある。千と千尋の神隠しではそのテーマが大きく押し出されている。
冒頭から働かなければ死ぬと言う強力な設定がなされる。さっきまで、車の中で
ドロッとしいてた子も、こうなれば働かざるを得ない。
琥珀主に教えられたとおりに裏の階段を下りて、釜ジーの所まで行くシーンの心理描写は見事である。恐る恐る階段を下りる時の階段という設定が良く利いている。踊り場で、ピョーンと跳ねる時の手つきの癖など性格描写の一部として、映画全体に効果を与えていだろう。
千尋が釜ジーと対面するシーンでは、失笑を禁じえなかった。あれは「面接」だ。職を失って失業中のお父さんたちは子供たちの隣のシートで「うっ」とか言ったかもしれない。

やはり、労働と言う物は自然の中で皆で協力してやるのが一番いい!という宮崎氏のメッセイジをこの映画から感じる。「なぜ?」という、理屈的な説明は一切無く、感動を持って伝えようとしているのが、この映画のポイントである。映画は理屈を伝える物じゃないからね。
千尋は、銭ーバの所で、何かハッと気づかされるような出来事に遭うわけでもないのに何かを掴んで帰る。「何だったんだ?」映画を見終わった後の今ひとつ腑に落ちない感が残るのはこのせいだと思う。
どうして千尋が両親豚を見分けられたかを問えば、それは、映画的には「ヘアーバンドに魔法がかかっているから。」が、正解であろう。
映画を寓意として解釈すれば、こうだ。
ヘアーバンドは、文明の二面性を繋げるメビウスの輪なのである。文明は、一方では、便利さで、人々に豊かさと余裕を与えるが、一方では、時間を奪い、金ばっかり追う人生を生む。あるいは”労働によって得られるもの”の外見と中身・・と、言ったほうが分かり易いかもしれない。湯バーバは、労働の価値を銭勘定でしか評価しない。湯バーバのところで作った髪飾りに、金銭的価値はない。双子の魔女は、その二面性を象徴した表現であり、髪飾りの輪には、二面をひとつに繋げて見せる力がこもっているのである。
一方の価値だけに疑問を感じた者達が、もう一方の価値を感じて、大きく成長して帰ってくるのである。文明の落とし穴を透視するのである。物の価値の実態を見抜くのである。
つくづく思うに、幸福とは何か?を見失わないことが、現代人には求められる。
現世界に戻った後、千尋が振り返る時にあのヘアーバンドがキラッキラッと二回光る。私には、まるでヘアーバンドが喋っているかのように作家のメッセージがハッキリと感じられた。「この髪飾りって、生き生きと輝いてるでしょ。」

若い女性の諸君、どうして千尋はこんな魅力的な女の子になったんだろう?人の魅力はどんな
環境から生まれるのだろうね?
この物語は人の中に眠っている、見えない魅力の不思議をといたものだ。


(ここでコーヒーを飲みながら、少し、思いにふけってください。)


あと、細かい解説を少し加えて終わりにしたい。

この映画のキーワードは”外見と中身”である。
千尋は、龍を見てハクだと分かる。両親は豚の外見で、もともと心は豚だった。銭ーバへの旅で”子供”と”顔”は、外見を変えられ、顔無しには、顔がなく、髪飾りは、安そうだ。名のある川のヌシは、ヘドロをかぶって腐れ神。油屋の中は湯屋で、あの世界の外観そのものはテーマパークの跡である。軽そうに見えた、石炭(?)は重い。蒸気を扱っている蜘蛛爺は、きっと雲の精だと思う。
湯バーバが、千尋を千にしたのはいうまでもなく、1000というNO・・・名前を取ってナンバーで人を管理する現代社会への風刺である。ついでながらハクは100である。
ハクが命がけで盗って来ようとしたのはハンコである。ハンコひとつで死ななきゃいけないこともある現代商業社会である。
湯バーバが双子なのは科学文明の2面性を表現していると先に述べたとおりである。資本主義というのはどうしても人間のエゴが出るシステムで、自分が、自国が得をするためにどうしても、自然破壊や儲け主義に走ってしまう。
もっと上手い社会システムが出来れば自然と文明を理想的に調和できるかもしれない。宮崎氏は世代的に共産主義にあこがれた時期があるはずだから、理想的な労働とは?という思いが強いのだと思う。共産主義は人間の怠慢さがつぶした面が多きい。又、数字管理は管理社会の独裁化という、共産主義のもう一つの崩壊要因を思い起こさせる。

ハクは自分では龍の姿から人の姿に戻れない。銭ーバと戦う為に龍の姿にさせられている。湯バーバのところに龍の姿で来たという事は、ハンコを奪いに来させられたのである。あのまま、ハンコ奪わずに帰ったら殺されるかもしれない・・といった状況下で、名前を思い出して湯バーバの呪縛から開放されるのである。ハクの姿で、かえって来たので、銭ーバは、非常に驚くのだ。そう思ってみると、また感動もひとしおでしょう。

川の神がくれてハクに食べさせた「草団子」っなに?と何人かに訊かれた。
水は命の源であり、川はの汚染度は環境破壊のバロメーターでもある。大気汚染も土壌の汚染も、川の汚染につながる。川の汚染は、海の汚染につながる。
神道的には水は清めの意味がある。手を荒い口をすすぐことは、体に溜まった穢れを清める為だ。穢れは本来、「気力枯れ」という意味で罪の意識が気力を奪うというのが、古代日本人の概念だった。この映画には神様が登場するので、この解釈で正解だと思う。
ちなみに、顔無しは、人生と、解釈できる。吸収する物しだいで、どうなるか決まってくる。少年と顔なし(人生)と顔がセットで出かている。
悪い物を飲み込みすぎたと思ったら私のいる神社で、お祓いすると気持ちが、すっきりするだろう。(笑)

いやぁ、それにしても、この映画は良く出来た。宮崎氏の最高傑作であろう。氏のメッセージと、イメージの素晴らしさにおいて。映画はやっぱり映像の部分が最大の魅力で、それは、監督のイメージ力で決まる。そしてそれは多くの場合、建物に現れる。黒澤明や溝口健二は、まずなんと言っても、建築デザインの天才である。しかし、宮崎駿にはかなわない。

「太陽の王子ホルス」のころから見ている私には、氏の建築美はあの映画の「村」が最高だろうと思っていたら、カリ城やシュナの旅で、同等のレベルの物を見せてくれ、もうタネぎれだろうとおもっていたら、この作品の「油屋」で、又、素晴らしい物を見せてくれた。あの、風神雷神の襖絵も素晴らしく良い。望遠レンズで撮ったように描かれているところが又いい。
演出的には、いつものパターンのもう見飽きてきた、マシーンの加速とか、アクションシーンでのパン(カメラの横フリ)とかは無く、先の襖絵などの迫力を利用した新しいアクション演出がなされている。私の知る限り、このアクション演出法は氏の発明である。

又、音楽についても、一言褒めておかねばなるまい。久石譲氏は音楽のみで登場人物の心境を演出する新しいタイプの舞台を演出されるそうだ。それは、正しい自己評価だと思う。特にこの作品における、久石氏は完璧にシーンにマッチした音楽を作り出している。この映画における久石氏の実力はもっと評価されて良い。
ついでに言うと、宮崎氏は、カリ城では、予算の都合で音楽が不満に終わってしまった・・・といっていたが、カリ城のテーマ曲は宮崎作品中NO1である。カリ城があんな素晴らしいのはあの音楽が流れる冒頭のクレジット(監督とかスタッフの名前がでるところ)が、素晴らしいからだ。あれは、世界一美しいクレジットだ。と、確信していて、当時、宮崎氏のこの発言に反感を持っていた。
今となってみればなるほど、久石氏の音楽が前編に起用されるべきだった。

疲れてきたがもう、一つ書かねばならない。靴についてである。「靴なんかもってどうすんのさ」「私の靴は?」「踏み潰したぁ!」などの台詞が意図的に使われているのは銭ーバの不自然な大笑いでも明らかだし、ラストのトンネルを出てくるところの靴のアップ、川に落とした靴の話、ラストの靴の絵、と、実に暗示が多い。
この映画では靴は、何を意味しているのだろうか?
ま、一つくらいは自分で考えてみるか?




その後、”暗渠”なるものについて知った。
東京オリンピックの頃、東京の川は汚染されまくっていて濁り、悪臭を放っていた。そういう有様を外国に見られるのを避けるため、河川はコンクリートで岸を固められ、その上に蓋をされてしまったそうである。そういう川は”暗渠”と呼ばれつつ現在も真っ暗な中、川としての機能を一応、続けているのである。
東京に住んでいたころ、近所に遊歩道があって、そこを通って風呂屋に通ったものである。あの遊歩道の下にはもしかしたらハクの川が流れていたのかもしれない。


千と千尋の神隠し