この作品は、キャラクターが、意図的にダブらせてあり、明らかにナウシカの焼き直し版である。
ナウシカは、もののけ姫、クシャナは、女棟梁、森の人は足高彦、クロトワと、トルメキア王のミックスが、変なジジイ、オームが、狼で、ある。
映画、ナウシカの中のクシャナは、片腕を、虫に食われた過去があり、もののけ姫の中で女棟梁は片腕を、狼に食われる。これは、もののけ姫が、ナウシカの焼き直し版であるというサインであろう。
残念ながら、私は、もののけ姫が、宮崎駿一世一代の大傑作であると言う見方のできる人物に、未だ出会っていない。
相当、頭のいい人に聞いても、もののけ姫は、分からないと言う。
その理由は、全ての、ファンが、宮崎イズムに洗脳されてしまっているからに他ならない。
もののけ姫で、宮崎は、それまでの信念を、覆してしまったと言っても、過言ではない。
この作品では、自然は人類を救う存在ではないのだ。
ナウシカでの、オームや、虫達と同じく、もののけ姫の狼や猪も自然の権化として描かれている。
しかし、その扱いは、大いに異なり、ナウシカでは、神のごとく、もののけ姫では、人間のごとく描かれている。
人間は、森との関係で、救われる。・・・過去の宮崎作品は、全て、この信念に貫かれている。
もののけ姫では、それが、ほぼ、否定されている。
人間の、救いようのなさとは、そんな甘い物ではなく、もっと、どう仕様のないものに近い・・・と、言った、宮崎の、思想的な、大転換が、この作品には、あり、その大転換に、ファンが、付いていけないのだ。
自然と、人間に対する、宮崎のこれまでの、全仕事の効果が、もののけ姫への、理解不能という、皮肉を生んでしまっている。
しかし、作品のレベルの高さから言ってこれは、仕方がないともいえよう。
宮崎自身が、いかに苦しんだかは、漫画、ナウシカを読めば、いやでも、伝わってくる。
漫画ナウシカのラストは、極めて悲惨である。人類が、やがて、いつかは、滅びる設定になっている。
あれほどにまで強かった、自然に対する信頼と、崇敬を、かなぐり捨ててしまっているのだ。作品執筆過程において、明らかに、思想的変遷が見られ、自然崇拝の象徴、深いと、オームが、実は、文明の産物と言う設定に変わってしまった。
ナウシカと言う、大きなテーマは、作家自身を、大きく成長させたと言えるだろう。
人間の醜さを、徹底的に描いた漫画ナウシカは、作家自身の、考えの甘さを、思い知らせる結果となた。
それは、同時に、作品を読むファンの成長をも促したとも言えよう。
漫画ナウシカのコアは、ドルクの初代皇帝の台詞に見られる。
「人間を救いたい。」 と言って、彼は、不死身の怪物ヒドラを連れ去り、皇帝となる。
人間を救いたいから、皇帝になりたい・・・とは、どういうことなのか?嘘か?
私は、最初に、この台詞を読んだときに、その意味が分からなかった。
漫画ナウシカを読んでいない人が、この作品を正しく理解するのは、かなり難しい。
特に、自然の象徴イコール神であるところの、鹿の描き方には、ビビッたのではないだろうか。
それまで、宮崎作品では、心のよりどころみたいに描かれていた自然なだけに、あれだけ不気味に描くのは、宮崎自身も、勇気が言ったに違いない。何せ、今までの作品と、まるで逆の事を言っているのだから。中間説明的な作品無しに、いきなりこれって言うのは、やはり、全作家生命を賭けた作品だったと言えよう。
結局この作品では、自然は、何か、得体の知れないもの、人間にとって、救いとなる物なのか、それは無意味幻想なのかよく分からない、ありがたそうな、不気味な物として、描かれている。
七人の侍の亜流にならないように注意した。と、宮崎が、語っていたと言うことは彼が、いかに、黒澤を意識していたかを物語っている。同時に、黒澤が、意識した、ドフトエフスキーの影響も、色濃く感じられる。漫画、ナウシカ自体が、かなり、ドストエフスキー的とも言える。ドストエフスキーは、キリスト教を人類の救いと捕らえようとして、メチャメチャ苦しみ、カラマーゾフの兄弟で、それを、完全に否定してしまった。
ドストエフスキーの出した、答えと、宮崎がたどり着いた結論は、完全に同一である。それは、文字で書くと浅はかに見えるので、ここでは書かない。
言ってしまえば、ああ、そんなこと・・・
この作品の与える感動は、作家の苦しみに付き合って、初めて得られる。
ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟だけ読んだらたいした作品じゃない。
ドストエフスキーを全部読めば、カラマーゾフが、最高傑作だ。
もののけ姫は、そういう作品である。
もう一度、漫画、ナウシカを読まれたい。
ところで、この作品を見たときに、一箇所、分からない所があった。足高彦が、村を出るときに、村の娘が、お守りを渡すシーンである。
ほんの短いシーンでも、こういった、レベルの高い作品では、必ず何かを意味している物である。
このシーンは、何を意味しているのだろうと思っていたら、今回、千と千尋の神隠しでは、それが、千尋の髪飾りとなって大きく取り上げられた。
つっかえが、取れた気分である。