この作品には一見、大きなミスがあるように見える。
それは、クシャナの兄を描いてない点である。
クシャナの言葉から読み取ると、彼は大悪人で、彼のせいで大勢の人が無駄に死に、大勢の良い人が処刑され、クシャナ自身も、死ぬほど、苦しめられ、辱められてきたはずである。
それをキッチリ描くことにより、この作品で、最も重要な部分・・・ネタバレ注意・・・言ってしまおう・・・彼女が口笛を吹くシーン・・・が生きてくるはずである。
それにより、作品全体も、より、メッセージのハッキリした物になり、読みやすく、理解し易く、つまり、読者の心に残り易くなる。
私は長い間、愚かにも、それを作者のミスであると考えてきた。
この作品が、イマイチしっくりこない気がするのは、そのせいだと。
が、クシャの兄を、醜い人物として、はっきり描かなかったのは、明らかに作者の狙いである。
と言うか、この作品には、悪い奴が出てこない。
もちろん、こいつは、悪い奴・・・って、描写はしてある。
そうではなく、読者が、「こいつ許せねー」とか「こんな奴に捕まったら大変だ・・」と、感じさせるような描き方で作り出された、”ボス的悪役”がいない。
クシャナの兄こそ、徹底的な悪、あるいは多面性はあるけれど相対的に見れば大悪・・・として描くのに、うってつけの位置にある人物である。
宮崎駿がもう一人の主役であるクシャナの過去を考えずにこの物語を書き始めたとは考えられにくい。(どちらかというと、ナウシカよりもクシャナの方が主役かもしれない。ナウシカをローマ字で書いて逆に並べるとカシュナになる・・・と、むかしアニメージュで誰かが指摘していた。)
普通ボスキャラとして悪役を作ることで、物語は成り立つのに、この作品は驚くべきことにボス悪役無しでこれだけ長大な物語を成立させている。
どうして、そういうキャラを作らなかったのか?
もちろん、文学とか物語とかいう物は、理屈で理解させる物ではなく、作者が作品にこめた感動を読者に伝える物である。
従って、作者がどうして、それを描かなかったのか、必ずしも知る必要はない。
それを知らなくても、この作品で伝えたいものが読者に伝わるように書いてあるからである。
ただ、作者の意図をハッキリ理解できる前とあとでは、読者の中で、何かが一歩前進するかしないか位の差があるように思うのである。
